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2016.04.08 ブログ

代表 吉川光洋プロフィール

初めましてこんにちは。
株式会社SKTカンパニー/rodina yokohama 代表の吉川光洋です。

美容学校を卒業するまでは生まれ故郷の大好きな秋田県秋田市の土崎(つちざき)という街で育ち、美容学校卒業後は、横浜市を中心にの他店舗展開する大手美容室に就職。13年間お世話になりました。

その13年の間に、カットコンテストでは優勝はしたことありませんでしたが、準優勝1回、入賞多数。副店長2年、店長3年の経験を経て、2011年の6月8日にrodinaをオープン。

と、美容室経営者にはよくある普通の経歴です。


rodinaはこんなお店

rodinaは横浜市神奈川区の大口という街の商店街の中にあります。いわゆる地域密着型の美容室です。

地域のイベントには積極的に参加させてもらい、自分たちでもイベントを開催、年に2回くらいはキッズカットデーを開催したりと自主開催のイベントを企画しながら、サロンワークを中心に活動をしています。その他にも「ガールズミーティング」や「ビューティワールド」等の美容イベントのヘアメイクのお仕事もいただいたりしています。

rodinaの活動を通して街の人たちに喜んでもらえたり、地域社会や美容業界に貢献できるよう、毎日一歩でも1ミリでも会社を前進させるために奮闘しています。

rodinaは、そんな活動を通してお客さまや地域の方々とコミュニケーションをとっているので、とにかくスタッフとお客さまの仲がいい。

それがrodinaの特徴です。


なぜ美容師になったのか


ボクの仕事は美容師です。美容師としてサロンワークをしつつ、美容室を運営する会社を経営しています。でも、本当は美容師になるつもりなんて全くなかった。ボクは本当は学校の先生になりたかったんです。運動するのが大好きだったから体育の先生になりたかった。

ジャージを来ながら仕事が出来て、運動しながら給食も食べれて、部活動でバスケ部の顧問になって放課後は大好きなバスケをする。(バスケ部だったのでバスケが大好きです。でも腰を痛めて高校でやめてしまいました。)なかなかいい生活だな、と中学の時に思ってました。きっと、小学校の4、5、6年の時の担任の河村先生や中学の時のバスケ部の顧問の稲田先生が好きだったんだろうな。二人とも体育の先生でしたので。

けど、先生になれなかった大きな理由は一つだけ。
勉強が苦手だったから。ただそれだけです。

学校は好きでしたけど、勉強がどうにも苦手でした。高校時代は学校にいたら授業を受けなくてはいけなので、1週間のうち4日くらいは学校は早退。着替えてそのまま家の近所の「ABCD」というパチンコ屋へ直行。タバコを吸いながらバイトの時間までパチンコを打つ。バイトの時間が来たらバイトへ行って、確変中で玉が出てたらバイト先に遅刻の連絡をいれてそのままパチンコを続行。バイトに行って夜はそのままバイトの先輩と飲みに行く。週末には競馬の予想に明け暮れ、大きなレースになればわざわざ岩手県の水沢競馬場まで行って馬券を買う。バイトがない日は親友たちと遊ぶか、当時付き合っていたガールフレンドとデートをするか。親友やガールフレンドと予定が合わなければパチンコへ直行。高校時代のボクの主なスケジュールはこんな感じ。

そんな高校時代でしたので、進路を決める際も大学という選択肢はゼロでした。

当時ガソリンスタンドでバイトしていて、車やバイクに興味があったので、車の整備士になろうと思い、車の整備の学校を受験しました。ですが、見事に落ちてしまいました。

自分のこんな過去を知ったら、スタッフやずっと担当させてもらってるお客さまにがっかりするかもしれませんが本当の事です。美容師になるなんてこれっぽっちも考えていませんでした。美容室に髪を切りにすら行っていませんでした。

そんな感じでフラフラしているボクに母親が一言こう言いました。

「とりあえず1年、美容学校にでもいってみれば」と。

今は美容学校は2年制ですが当時は1年制、ボクが通った美容学校は試験がなかったから履歴書を提出すれば多分誰でも入れました。

それがボクが美容師になったきっかけです。

美容学校に入学したものの、美容師に興味なんてなかったので、美容学校時代も学校には行かず、高校時代と変わらない生活を送ってました。

当時は1年制だったので、4月に美容学校に入学して3ヶ月くらいしたら就職活動が始まります。美容師に興味がなかったので、就職先はどこでもよかったのですが、そこでまた母から一言

「あんたは県外に出なさい」と。

先生に相談をして秋田美容学校の先輩が何人か在籍している横浜の美容室にお世話になる事になりました。


秋田時代に受けた影響


昭和53年12月26日21時45分頃、父、洋一郎、母、恭子のもとに元気に産まれ、両親の元、なに不自由なくすくすくと育ちました。5歳年下の弟も産まれ家族4人で暮らしていました。

が、小学校3年生の時に大好きだった父親が亡くなります。父さんは強いから絶対に病気に勝てると思っていました。でも勝てなかった。
ガンだったんです。

ボクは父のことをあまり覚えていません。どんな声だったのかもあんまり覚えてない。弟なんて4歳だったから全く覚えてないみたいです。

ボクが覚えてることと言えば、魚釣りが大好きで、よく近所の海に連れてってもらってたこと。町内のおじさんたちとやってた草野球にもよく連れてってもらったこと。父の背番号は16番でポジションはキャッチャーだったこと。日曜日の朝に近所のタバコ屋に父が吸っていたチェリーというタバコと炭酸飲料のスプライトをおつかいで買いに行かされてたこと。夜はいつもお酒を飲んでたこと。飲んでるお酒はいつもサントリーのオールドだったこと。町内の行事には積極的に参加しててピンクのスーツを着て司会をしたり、町内のおじさん達とナースの格好をして盆踊りをしていたこと。町内の行事の打ち上げではいつも酔っぱらっていたこと。

そういう場にはいつも家族を連れてってくれてたこと。

そんな父親でした。

1月16日の確か午前中だったと思う。母方の実家に預けられていたボクと弟は、叔父から「お父さん病気に負けたよ」の言葉で父の死を知らされました。ボクは一瞬冗談だと思ったけど、その後ろで泣いている祖母を見て現実なんだと認識して泣き崩れたのを覚えています。それにつられて弟もわけがわからないまま泣いてたな。

その日からボク達兄弟は、たくさんの人たちに支えられて生きてきました。

親戚のみんなや父や母の仲間たち、学校先生、親友たち、親友たちのお父さんやお母さん、部活やバイトの先輩たち。そして1番はボクたち男兄弟2人を育ててくれた母。

お世話になったみんなの好意に反するようなヤンチャなこともしたし、警察にも何度もお世話になったけど、今思えば全てにおいてたくさんの「人」に支えられてきたし、いろんな大切な事にも気づかせてもらいました。

ボクが上京する少し前、こんなことがありました。あと何日後かには横浜に行くと決まっている3月なのに雪が降ってた日の夜の事。

家に1本の電話が来ました。ボク宛にでした。
電話の相手は父の町内の仲間だった石田さんっておじさん。

石田さんは父が生前仲良くしていた町内のおじさんグループの中の1人です。ボクの同級生の女の子の知子ちゃんって子のお父さんという事もあったのかどうかはわからないけど、父親が亡くなってからもボクの家族をよく気にかけてくれてました。ボクが横浜に行ってからもずっと、弟の子供が生まれてからも甥っ子姪っ子達まで気にかけてくれてるとっても優しいおじさんです。

その石田さんから
「おーミッツ(みんなかミッツと呼ばれていました)、今から公民館さけ(「公民館に来い」ということ)」と呼ばれたので家から5分もかからないところにある町内の公民館に向かいました。

石田さんに呼ばれたボクは町内の公民館に行ってみると、そこには石田さんだけではなく、町内のおじさんグループのおじさん達が勢ぞろいしていました。そのおじさんたちはみんな、父親が元気な頃によくしてくれていた父親の飲み仲間たちでした。ボクはその輪の中に入れてもらって、「まず飲め」と、何度も何度も注がれて浴びるほどお酒を飲まされました。

そのままおじさんたちとダラダラ飲んでいると、酔っ払って誰かがこんな事を言いました。

「洋一郎の息子が東京さ行ぐがら盛大に送ってやらねばな」って。

町内のおじさんたちは父が亡くなって10年たっても父親の話で酒を飲んでくれていて、しかも息子のボクの事も気にかけてくれていたんだって思ったら、父親がどう生きてきたのかが少しだけわかった気がしました。

その当時でも、もう父親が亡くなって10年以上たってるのにもかかわらず、しかもボクが1歳位のときに町内に移り住んできたので、父親とはそれほど長い付き合いでもなかったはずの町内のおじさん達が今でも父親の話をしながらお酒を飲んでる。しかも、その息子のボクが上京するからってこんな会まで開いてくれた。

ボクはこの一言で父は人を大切にする人だったんじゃないかなっと思ったんです。父の事はあまり覚えていませんがその時初めて、父のような人になりたいって思った。

ボクが上京する前に、父は町内のおじさんたちを通して、そういう事を伝えたかったんじゃないかな。多分ですけど。

帰りがだいぶ遅くなり、公民館に迎えに来てくれた母は泣いてました。ボクがベロベロに飲まされて酔っ払ってどうしようもない息子だなって事ではなくて、きっとおじさんたちの気持ちが嬉しかったんだと思う。

「人を大切にしろ」

その時感じた天国の父親からの強烈なメッセージは今でもボクの中で響きまくっていて、その想いがそのまま、会社経営の軸になってるように思います。

ボクの考え方の芯にあるのは「家族」であり「人」。スタッフが楽しいかどうか、喜んでるかどうか。その後ろにいる家族が喜んでるかどうか。自分の家族だったらそうであって欲しいから。


株式会社SKTカンパニー/rodina yokohamaの軸


その根本にあるのは、お客さまに「喜んでもらえる美容師」「応援してもらえる美容師」になってほしい。豊かな美容師人生を送って欲しい。

ただそれだけ

ボクがこんな考え方になったのも、こういう体験があって、出会った人たちにお世話になったから。その影響のおかげだと思っています。

自分の家族だったらどう考えるか。
もし自分の家族が仕事のことで苦しんでたりするのは絶対に見たくない。それはスタッフだって同じこと。なので、いつもスタッフがもっと喜んでくれるにはどうしたらいいんだろうって考えてる。

スタッフのお給料をどうやったらもっと上げれるか。
スタッフの家族がもっと笑顔になるにはどうしたらいいか。
もっともっとスタッフが成長するには。
もっともっとスタッフが輝くには。

スタッフが美容師として、社会人として自分の将来が明るく見えるように、経営者としてどんな選択をしたらいいのか。毎日毎日そんなことばかり考えてます。

そしてそれらを実現するためにボクが出した答えは、挑戦し続けること。
新しいことに挑戦し続けて、常にアップデートしていくこと。
失敗もたくさんしますが、挑戦は学ぶことばかりです。

でも挑戦し続けるためには、目の前のスタッフやお客さまに全力で向き合って喜んでもらうこと。

サロンワークを通してお客さまに喜んでもらえた結果、挑戦し続けることができ、挑戦を通してスタッフが喜んでくれて楽しんでくれて、その成長を実感する。そしてその先にいるスタッフの家族が笑顔でいてくれる。それがボクが考える豊かな美容師人生。

その豊かな美容師人生をつかむためには当然ですが楽しいだけじゃダメ。美容師として成長するために楽な道なんてない。厳しいことも悔しいことも辛いことも経験します。どちらかといえばそっちのほうが多い、ボクだってきっと厳しいことも言うと思う。だけどそこには想いがあるし愛がある。

なので、お客さまやスタッフの喜んでもらうためには、業界の常識にとらわれないでいろんなことにチャレンジをしながら、スタッフのチャレンジも会社を通してサポートをしていきたいと思っています。

個人店が増え続け、「供給過多」「人手不足」と言われている最近の厳しい美容業界において、どこにでもある同じような美容室、いくらでも代わりのきくどこにでもいるような美容師ではなくて、どんどん新しいことにチャレンジする美容室があっても面白いですよね。

もっともっと大きくしていきたい。
みんなで楽しい未来を見に行きたい。

そう想いながら進んでいる毎日です。



吉川光洋・経歴
株式会社SKTカンパニー代表取締役
rodina yokohama代表 吉川光洋(キッカワミツヒロ)

昭和53年12月26日生まれ、やぎ座。B型、動物占いは束縛を嫌う黒ヒョウ

秋田県秋田市土崎出身、神奈川県横浜市在住
家族構成  妻 娘 息子 
好きな事  アウトドア スポーツ観戦 音楽
平成6年  秋田市立土崎中学校卒業
平成9年  秋田県立秋田西高等学校卒業
平成10年 秋田ヘアビューティーカレッジ(当時は秋田美容学校)卒業
平成10年 神奈川県大手の美容室に就職
在籍中は副店長2年、店長3年を経験、後輩の教育、店舗マネジメントを経験
独立準備の為、平成23年3月退社
平成23年 rodina創業
平成25年 rodina大口店オープン
平成25年 株式会社SKTカンパニー設立
平成28年 1号店、2号店を合併、拡張移転
令和  3年 自社スタジオ完備のサロンrodina.cocオープン


rodina(ロディーナ)はチェコ語で家族

SKTカンパニーに意味は
S=社員、K=顧客、家族、T=楽しい

この記事に屋号や社名について詳しく書いてますのでよかったら読んでみて下さいね>>
『rodina』という屋号には、ボクの「ルーツ」「大切なこと」「好きなこと」「想い」がつまってる

「ロディーナ」や「SKTカンパニー」には、社員もその家族もお客さんも楽しい会社にしよう。そんな想いが込められています。
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