Owner Profile
代表 吉川 紹介
吉川 光洋 / Kikkawa Mitsuhiro
秋田県秋田市出身
株式会社SKTカンパニー 代表
ヘアサロンrodina オーナー
訪問美容のyou-me 代表
略歴
秋田美容学校(現秋田ヘアビューティカレッジ)卒業後、神奈川県内の大手サロンで13年間勤務、店長を3年経験後、2011年6月にロディーナを創業。2019年4月にロディーナの別ブランドで訪問美容のyou-meを立ち上げる
受賞暦
2007年 | ジャパンカップ フォワード賞 |
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2008年 | ジャパンカップ 審査員特別賞 |
2008年 | ジャパンカップ 審査員特別賞 |
2008年 | ジャパンカップ フォワード賞 |
2008年 | 北村杯 準優勝 |
2012年 | ルベルDream2013 ファイナリスト |
メディア掲載暦
2019年 | 美容と経営プラン 12月号 |
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2019年 | サロンオーナー 4月号 |
2016年 | 美容と経営プラン 8月号 |
2015年 | サロンオーナー 1月号 |
Blog & SNS
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Story
私について
はじめまして。株式会社SKTカンパニー代表 吉川です。現在、弊社代表として横浜市で美容室ロディーナと訪問美容のyou-meの経営をしています。
秋田の港街、土崎(つちざき)で生まれ育ち、美容学校卒後、横浜へ。
美容学校を卒業するまで生まれ故郷の大好きな秋田県秋田市の土崎(つちざき)という港街ですくすくと育ち、卒業後、横浜の他店舗展開する大手美容室に就職。13年間修業を積み、その13年の間に、カットコンテストでは優勝はしたことありませんでしたが、準優勝1回、入賞多数。副店長2年、店長3年の経験を経て、2011年の6月8日にrodina(ロディーナ)をオープン。美容室経営者にはよくある経歴です。
私の仕事は美容師です。美容師としてサロンワークをしつつ美容室と訪問美容を運営する会社を経営しています。でも、本当は美容師になるつもりなんて全くありませんでした。
美容師とは無縁だった私
小さい頃は体育の先生になるのが夢
本当は学校の先生になるのが夢でした。運動するのが大好きだったので体育の先生になりたかったんです。 中学時代、私の体育の先生のイメージはこうでした。 「ジャージを来ながら仕事が出来て、運動しながら給食も食べれて、部活動でバスケ部の顧問になって放課後は大好きなバスケをする。」 なかなかいい生活だなー、と。
小学校の4、5、6年の時の担任の河村先生や中学の時バスケ部だった頃の顧問の稲田先生にお世話になった影響もあったと思います。2人とも体育の先生でした。 だけど先生になれなかった大きな理由は一つだけ。バカだったから。ただそれだけです。
勉強嫌いで不真面目、平日はパチンコ、夜は飲み歩き、週末は競馬、絵に描いたような不良学生
学校は好きでしたけど、勉強がどうにもこうにも嫌いでした。高校に入ってから腰を痛めてバスケ部を辞めたということもあり、学校に行けば勉強をしなきゃいけないので、1週間のうち4日くらいは学校は早退。着替えてそのまま家の近所の「ABC」というパチンコ屋へ直行。タバコを吸いながらバイトの時間までパチンコを打ち、バイトの時間が来たらバイトへ行って、玉が出てたら遅刻の連絡をいれてそのままパチンコを続行。バイト後はバイト先の先輩と飲み歩いて朝方に帰り、二日酔いで高校に行く。週末には競馬の予想に精を出し、大きなレースになればわざわざ岩手県の水沢競馬場まで行って馬券を買う。バイトがない日は地元の親友たちと遊ぶか、当時付き合っていたガールフレンドとデートするか。親友やガールフレンドと予定が合わなければ学校は早退してパチンコへ。高校時代の私の主なスケジュールはこんな感じ。
希望の就職先への活路がことごとく閉ざされる
なので進路を決める時に学校の先生にはなりたかったのですが、こんな生活を続けてたので大学という選択肢はありませんでした。当然ですが、体育教師になるという夢もそこで閉ざされてしまいました。バスケを辞めてからずっと、高校当時はガソリンスタンドでバイトしてたということもあり、車の整備士になろうと考えて整備の学校を受験しました。ですが、バカだったし、そのくせに面接で面接官と揉めてしまいその学校も落ちてしまった。
美容師に全く興味がない私が美容学校へ
母の一言「とりあえず1年、美容学校にでもいってみれば」で美容学校へ入学
こんなこと書いたらずっと担当させてもらってるお客さんに悪いかもしませんが、本当の事なので仕方ありません。美容師になるなんてこれっぽっちも考えていませんでした。当時の私は美容室に髪を切りに行ってませんでしたし、美容師の「美」の字もよぎりませんでした。
そんな感じでフラフラしている私に母親が一言、
「とりあえず1年、美容学校にでもいってみれば」と。
今は美容学校は2年制ですが、当時は1年制で、更に私が通った秋田美容学校は試験がなかったので、おそらく当時は履歴書を提出すれば誰でも入れたんだと思います。 結果的にこの一言で私の人生が決まってしまうわけですが、母の言う通り美容学校に進んだはいいですが、美容学校時代は美容師になりたいわけではないので学校にもほとんど行きまませんでした。だってつまらなかったし興味もなかったから。なので学校にはほとんど行ってなかったので美容学校時代の友達は一人もいません。ちなみに美容学校へ持ってってたものといえば、タバコと駅の売店で毎朝買うスポニチと週間ギャロップ。美容学校時代はパチンコは卒業して競馬一本でした。と、こんな感じで美容学校時代も高校時代とほぼ変わらない生活を送ってました。
またも母の一言「あんたは外に出なさい」で秋田から横浜へ
当時は1年制だったので、4月に美容学校に入学して3ヶ月くらいしたら就職活動が始まるんです。 とにかく美容師に興味がなかったので就職先はどうでもよかったのですが、 そこでまた母から「あんたは外に出なさい」の一言。 その時の母の真意はわかりません。おそらく、フラフラしてる私に都会の荒波に揉まれて来いって感じだったんだと思います。なのでせっかくだから都会にでもいってみようかなと、そんな軽いノリで美容学校時代にお世話になった児玉先生に相談したら、横浜に卒業生の先輩が何人かお世話になってる美容室があるからそこに行ってみればと紹介してくれました。それで私は横浜に就職することを決めました。でも正直、4年位で秋田に帰ろうって思ってたんです。どうして4年なのかというと大学が4年だから。なんとなくそんな感じ。バカなんでしょうがないんです。
私の人生観、経営に影響を与える父のこと
昭和53年12月26日21時45分頃、父、洋一郎、母、恭子のもとに元気に産まれ、両親の元、なに不自由なくすくすくと育ちました。5歳年下の弟も産まれ家族4人で暮らしていました。
父の死
小学校3年生の時に大好きだった父親が亡くなります。父さんは強いから絶対に病気に勝てると思っていました。でも勝てませんでした。 ガンでした。 私は父親のことをあまり覚えていません。どんな人だったとか、どんな声だったのかもよく覚えていません。弟は当時4歳だったため全く覚えてないようです。
1月16日の確か午前中だったと思いますが、母の実家に預けられていた私と弟は、叔父から「お父さん病気に負けたよ」の言葉で父親の死を知らされました。私は一瞬冗談だと思いましたが、その後ろで泣いている祖母を見て現実だと認識し泣き崩れたのを覚えています。 それにつられて弟もわけがわからぬまま泣いていました。
沢山の人に支えられる
父の死から私達兄弟ははたくさんの人たちに支えられてきました。
親戚のみんなや父や母の仲間、学校の先生、友人やその家族、部活やバイトの先輩。そして1番は私たち男兄弟2人を育ててくれた母。 お世話になったみんなの好意に反するようなヤンチャなこともしました。 警察にも何度もお世話になりましたが、今こうして横道それずにいるのは、 当時は気づきませんでしたが、全てにおいてたくさんの「人」に支えられてきたこと、それにより大切な事に沢山気づかせてもらったおかげ、と思っています。
ターニングポイントとなる秋田での出来事
上京直前にかかってきた、一本の電話
私が上京する1週間くらい前、こんなことがありました。あと数日後に横浜に行く、という3月なのに雪が降る日の夜の事でした。 家に1本の電話が来ました。私宛にでした。 電話の相手は父親の町内の仲間だった石田さんからでした。
町内オジサングループが公民館に勢ぞろい
石田さんは父が生前仲良くしていた町内のオジサングループの中の1人で、私の同級生の知子ちゃんという女の子のお父さんという事もあったのか、父が亡くなってからも私の家族をよく気にかけてくれてました。現在でも秋田の甥っ子姪っ子達まで気にかけてくれてるとても優しいおじさんです。 その石田さんから 「おーミッツ、今から公民館さけ(公民館に来い)」と言われたので家から5分もかからない位にある町内の公民館に向かいました。 なぜか石田さんに呼ばれた私は町内の公民館に行ってみると、そこには石田さんだけではなく町内のオジサングループのオジサン達が勢ぞろいしていました。父が元気な頃よくしてくれてた父親の飲み仲間です。
送迎会で気づいた亡き父からのメッセージ
私はその輪の中に入れてもらい、「まず飲め」と、何度も何度も注がれて浴びるほどお酒を飲まされました。 そのままおじさんたちとダラダラ飲んでいると、酔っ払って誰かがこんな事を言いました。 「洋一郎の息子が東京さ行ぐがら盛大に送ってやらねばな」
その時、父がどう生きてきたのかが少しだけわかった気がしました。私はこの一言で、父はものすごく人を大切にする人だったんじゃないか、と思いました。既に、父が他界し10年以上たっていましたし、私が1歳位のときに町内に移り住んでから亡くなるまでの間ですので父とそれほど長い付き合いがあったという訳でもありません。ですが、町内のおじさん達は10年経った今でも父の話をしながらお酒を飲み、父を偲んでくれていました。しかも、その息子の私が上京するからと、こんな会まで開いてくれた。このとき初めて、父のような人になりたいと思いました。
「人を大切にしろ」
私が上京する前にどうしても父親が天国から私に伝えたくて、町内のおじさんたちを通してそのことを伝えてくれたんじゃないか、そう思っています。 帰りがだいぶ遅くなって、公民館に迎えに来てくれた母は泣いてました。私が飲まされてベロベロに酔っ払ってどうしようもない息子だなって事ではなくなく、きっとおじさんたちの気持ちが嬉しかったんだと思います。
私の考え方の芯にあるもの
その時に感じた父親からの強烈なメッセージは今でも私の中で響きまくっていて、その想いがそのまま、会社経営に繋がってるように思います。 私の考え方の芯にあるのは「家族」であり「人」。スタッフが楽しいかどうか、喜んでるかどうか。その後ろにいる家族が喜んでるかどうか。だって自分の家族だったらそうであって欲しいから。 その根本にあるのは、お客さんに「喜んでもらえる美容師」「応援してもらえる美容師」になってほしい。その結果、スタッフが豊かな美容師人生を送って欲しい。 ただそれだけです。
関わる人が楽しくいてくれたらそれでいい、美容師として成長して毎日を楽しんでほしい、ただそれだけなんです。私がこんな考え方になったのも、こういう体験があり、出会った人たちにたくさんお世話になったから。その影響のおかげだと思っています。
美容師という職業を好きになったきっかけ
はじめは好きじゃなかった、ろくに練習もしなかった美容師なり立ての頃
今でこそ美容師は大好きだけど、憧れて美容師になったわけじゃないので、美容師になりたての時は仕事が好きじゃありませんでした。美容師自体に興味がなかったし、人見知りという性格もあってお客さんともあまりかかわろうともしませんでした。美容師に興味もなかったので練習もあまりしませんでした。でも練習をしないと先輩に怒られるから、練習をしたフリをして飲みに行ってた。でもお金がなかったから家で飲むことが多かったな。練習をろくにしなかったので、もちろん技術は全く上達しませんでした。
先輩として教える立場となったことで起きた変化
だけど同期と遊ぶのや先輩に飲みに連れってってもらうのは楽しかった。今考えるとサイテーのアシスタントです。
でも、いつから美容師が楽しくなってきたんだろうと思い返してみると、もしかしたら後輩が入ってきてからなのかなって思います。こんな私でも美容師で先輩になれて、たった1年しか美容師をしていないんだけど後輩に何かを伝えられる事ができた。それがなんかうれしかったのかもしれません。
仕事が好きになったら練習も頑張るようになった
美容師で先輩になって後輩に何かを伝えるのって楽しい。それで後輩が成長して喜んでもらえたらうれしい。もしかしたら教師になりたかった本質ってそんな事だったんじゃないのかなと、深く考えたらそうなのかもしれません。だから後輩とはよく飲みに行きました。
それから私は練習も頑張るようになった。
立場が変わると意識が変わる、先輩になったことで成長した経験を生かして
私自身が、後輩ができて初めて仕事が楽しくなったって経験があるので、ロディーナを創業した時、本当は奥さんと2人でオープンしようとしてましたが、オープニングで三國屋がロディーナで働きたいと言ってくれたので、三國屋を先輩にするために、ロディーナも毎年増員していけたらいいし、できれば新卒を毎年入れて行けたらいいなと思ったんですね。
先輩になるってそれだけで意識が変わるから。 とはいえ、美容師は、普段のサロンワークやトレーニングで同じように過ぎて行く毎日です。家に帰ったら、趣味の時間を作ったり、家族や大切な人達とコミュニケーションをとってまた明日って感じ。それでもサロンワークでお客さんに喜んでもらえたってだけで、めちゃくちゃ嬉しいし、それだけで心は満たされるとおもいますが、美容師としての本当の楽しさは味わえないんじゃないかと思うんです。
チャレンジすることの大切さ
挑戦した人だけが知っている喜びがある。
やっぱり若い美容師さんにはいろんなことにチャレンジしてほしいと考えています。例えばコンテストとかヘアスタイルの撮影とか。美容師にしかできないクリエイティブな事に挑戦してほしい。どうして私がそういう事に挑戦してほしいと思うかというと、コンテストに挑戦していくと、いつも仲良くしてくれているお客さんが、今よりももっと応援してくれるようになるんです。
そして、どんどん挑戦していくと、技術もどんどん上手くなって、賞も取れるようになってくるし、もし、賞なんか取っちゃった日にはお客さんがむちゃくちゃ喜んでくれる。こればっかりは経験しないとわからない。
美容師として最高に幸せな瞬間
チャレンジすることで成長し、成長することで周りが応援してくれる。
あなたにカットしてもらっててよかったって思ってもらえるんです。さらに、あなたのことを一番応援してくれている親御さんが本当に喜んでくれる。今まで以上にお客さんや仲間に応援されて、大切な人が心から喜んでくれる。美容師としてチャレンジを繰り返し、応援してくれる人がどんどん増えて行く。それこそが美容師をしていて最高に幸せな瞬間なんじゃないかと思っています。
Identity
経営者として大切にしていること
自分の家族だったらどう考えるか。
もし自分の家族が仕事のことで苦しんでたりするのは絶対に見たくない。 それはスタッフだって同じこと。だからいつもスタッフがもっと喜んでくれたらいいなって思っています。
- スタッフのお給料をどうやったらもっと上げれるか。
- スタッフのお休みをどうやったらもっと増やせるか。
- スタッフの家族がもっと笑顔になるにはどうしたらいいかな。
- もっともっとスタッフが成長するには。
- もっともっとスタッフが輝くには。
- スタッフが美容師として、社会人として自分の将来が明るく見えるように、経営者としてどんな選択をしたらいいのか。
毎日毎日そんなことばかり考えています。
豊かな美容師人生の追求。
私が大切にしていること。それを実現するために私が出した答えはいまだにわかりません。ですが、これだけははっきり言えます。
「スタッフに喜んでもらうには、まずはお客さんに喜んでもらうこと。」
お客さんが喜んでくれないお店は続きません。お店が続かなければ給与も渡せません。 たくさんのお客さんが喜んでくれるからこそ美容師として楽しく働けます。 お客さんが喜んでくれるからこそスタッフが豊かになれるサロン作りを目指せます。
ロディーナでのサロンワークや訪問美容など、会社の活動を通してお客さんに喜んでもらえた結果、 スタッフが喜んでくれて楽しんでくれて、その成長を実感する。 そしてその先にいるスタッフの家族が笑顔でいてくれる。 それが私が考える豊かな美容師人生です。
その豊かな美容師人生をつかむためには当然楽しいだけじゃダメです。 美容師として成長するために厳しいことも悔しいことも辛いことも経験します。 私も当然厳しいことも言います。だけどそこには想いがあり、愛があります。
Style
私の経営スタイル
スタッフのチャレンジ精神を大切にする。
私はスタッフのチャレンジ精神を大切にしています。会社を通してスタッフのチャレンジをサポート、応援できたら嬉しいと思います。
どんなことをやってもいいじゃん。
お客さんを喜ばせるのにマニュアルはありません。 業界の常識にとらわれず、いろんなことにチャレンジしてお客さんに喜んでもらえばいい。お客さんに喜んでもらうため、家族に喜んでもらうためなら、どんなことをやってもいいじゃないか、と思っています。
近年、美容業界は個人店が増え続け、「供給過多」「人手不足」と言われる厳しい状況です。
どこにでもある同じような美容室の、いくらでも代わりのきく美容師ではなく、 どこにもない、変わった美容室、美容師がいても面白い。
そんな感じを目指し突き進む毎日です。
株式会社SKTカンパニー 代表 吉川 光洋